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『ハッピー・トーク』所感

 日菜子が母と別れたのは物心つく前ではなかったか、という仮説を立 ててみた。この仮説を反面に否定するのが、小尾の「結構、ものごころ ついてから引きとられたらしくてさ」である(もちろん、母と別れてし ばらくしてから引き取られた可能性もあるが、いくつかの理由によりこ こではそれを考えない)。その根拠はどうだろう。小尾が日菜子のこと を「日菜」と呼ぶほどの交友関係であるにしては、彼がそれしか知らな いというのはいささか妙に思える。彼の情報源は日菜子本人だけであろ うこと及び日菜子のあけっぴろげな性格を考えると、実に情報量が少な すぎる。これは証言とは逆に日菜子自身が自分の両親に関する情報をほ とんど持っていないことを意味するのではなかろうか。
 日菜子が自分の母親の生死を直接に確認しているわけではないらしい ことも不思議である。十分に物心ついてから自分の親との別離(死亡や 失踪)を経験したとして、それを覚えていないなどということはあるの だろうか?。また、日菜子が養女であることを隠されていたならばとも かく、母との別離を忘れてしまったというのもありえそうにない。
 さて、ここで日菜子が小学生時代に描いた絵について思い出して下さ い。そう、彼女は自分の母親の絵をビッと破ったのみならず、ぐしゃっ と丸めたのです(この描写がわざわざ存在している意味を考えよう)。 これは日菜子の母親に対する感情が欠落していることを表す描写である。 また、母親に対する回想の描写が一コマもないことの意味も考えよう。 これらも、母親との別離が日菜子の物心つく前であったとするならば容 易に説明できるだろう。
 この仮説が正しいならば、日菜子は叔父叔母からの話や写真などから 合成された記憶しか持っていなかったことになる(あの絵は写真の中の 母親か)。それこそが、日菜子が自分の母親に会った後のことを全く考 えていなかったことを雄弁に説明できよう。

 この立場で作品を読み通すと、この作品の主題は「母に会いたいとい う漠然とした願望が、自分のわがまま(実体の無い願望)にすぎないこ とを日菜子自身が悟ること」にあるのだと思える。だからこそ「ごめん ね…わがままにつきあわせちゃって…」でエンディングになれば、アン ハッピーエンドながらも傑作になったろうにと悔やまれるのだ。「抱き しめさせて!」の台詞の存在が理由ないものとは思っていないが、上記 の主題(と思えるもの)に比べ、その理由が十分に重いとは思えない。 そして、この作品のタイトルが『ハッピー・トーク』である意味も未だ に実感できないのである。