いわゆる「アニメ」の定義は「モデル(人形や絵画)を少しづつ変化させながら撮影し、それを連続して映像化することによって、人間の眼の残像現象を利用し、人間にあたかもモデルが動いているかのように認識させる手法」であると思います。狭義では、モデルがセル画に限定されるでしょう。
さて、人間が架空の事項を表現するにあたって、最初に使用した手法は「演劇(原始の音楽を含む)」です。歴史的に見ても、文学や絵画よりも演劇のほうが先に発達したことをみても、わかると思います(残念なことに古代の演劇は記録に残っていません)。その後に、「絵画」が、楽器の実用化とともに「音楽」が、文字の実用化とともに「文学」が、写真機の実用化とともに「写真」が、蓄音機の実用化とともに「レコード」が、そして映写機の実用化とともに「映画」が、新しい表現の手法として発達しました。技術の発展と共に、今まで出来なかった表現が可能となったり、より効率化したりしたといえるでしょう。
そして、「アニメ」は、「映画」の一形態であると言えます。当初は、既存の手法で表現できないものを表現するのに使用されていました。例えば、動物が踊り喋る物語には、アニメを使用するしかないでしょう。さらに、人間のイマジネーションが発達するにつれて、実写よりも安上がりな手法として「アニメ」は使用され始めました。例えば、無限の大宇宙を航行する宇宙船を安く表現する方法は「アニメ」しかありません。
ところが日本では、本来は「実写」で十分な作品が「アニメ」で表現されるようになりました。これはコスト及びイメージに関する要因が大きいでしょう。これは、「アニメ」が「実写」を補完する手法から「実写」と並列する手法となる可能性を示したと言えます。つまり、他の手法にないメリットがあれば十分に手法として独立できるということです。ところで、日本以外の国で「アニメ」が一つの手法として確立できるかどうかは難しい問題があります(これは文化的な問題を多分に含みます)。観るだけならばどこの国でも通用するでしょうが、製作するとなると別でしょう。まあ、韓国、台湾、フィリピン、及びインドネシアには十分に可能性がありますがね。少なくとも、人権意識が強い国やセル画製作にむかない人達の国では、セル画方式のアニメ製作が大きな地位を占めることはないでしょう。
ところで、将来の「アニメ」を考えてみます。数十年を単位として考えますと、先進資本主義国(ここで先進とはテレビその他のAV機器が普及していること)の「アニメ」は全てコンピューターを用いて製作するようになり、恐らくは現在の「マンガ」製作体制を大がかりにした製作体制になるでしょう。これは、プロが十数人1週間で25分の作品を製作できる体制です。この予測の最大の理由はコストにあります(詳細は割愛)。より安くより良い手法が使用されるのは資本主義国の原則です。人件費の問題はやはり大きいのです。いつの日か、画像処理用コンピューター(民生用)が現在の1000倍以上の性能を持つようになり(ソフトウェアを含めると、十年程度で達成されるでしょう)、そのコンピューターが一般的にアニメーション業界に導入され(日本では十年以上を要する)たときにこそ、「アニメ」は表現手法としての新たな地位を確立するでしょう。ただし、日本は労働者(いわゆるアニメーターの職場)問題を解決することが必要になるので、恐らくはアメリカの方が先に実用化するのではないだろうか。