いつも私がくどくど言っている共通価値感の話です。
「掲示板でのことは掲示板で」「MLでのことはMLで」「チャットでのことはチャットで」のように考えている人と、「ネットでのことはネット上で」と考えている人とでは、交流方法に差異がでてくる。後者は掲示板の話題に対する反論を個人宛てのメールで送ったりするが、前者はそれを卑怯だと感じたり戸惑ったりすることが有る。同様に、「(匿名性ゆえに)ネットは別世界」と考えている人は「ネットはあくまで一般社会におけるメディアの一つにすぎない」と考えている人から、ネット外での交流を求められるとそれに戸惑ったりするかもしれない。ましてや、「掲示板でのことは掲示板で」と考えている人と「ネットはあくまで一般社会におけるメディアの一つにすぎない」と考えている人とでは…(苦笑)。
さて、交流レベルに差異がある場合には、より狭いレベルを持つ者により広いレベルを持つ者が合わせなければならないという意見がある。ところが、前者に合わせるのが適切でないと後者が感じた場合(例えば、その掲示板のルールから大きく外れてしまっている話題など)は、後者は前者に通信する手段がなくなってしまう。当たり前だ、前者は後者からの掲示板以外での討論(交流)を拒否しているのだから…。前者は後者からの信頼を得ることはできないだろう。逆に、狭いレベルに合わせる必要がないという意見もある。その場合には上記の戸惑いが発生する。
さて、上記の戸惑いなどを防止するためには、場におけるコモンセンスの存在が重要だ。掲示板やチャットやMLなどではコモンセンスが自然に形成されるまで待つことはなかなか難しい。よって、掲示板やチャットやMLなどの交流用コンテンツを提供している者が、その場におけるルールあるいはスタイルやポリシーを決めて明示しておくのが効果的だ。もちろん、同じ掲示板でも管理者が異なればルールも異なるのは当たり前だ。
それにしても、ルールが明記されてない場が多すぎる。おかげで、管理者の予定していたルールと参加者らが自然に形成していったルール(コモンセンス)とが乖離していく。しかも、参加者の形成していったコモンセンスはルールとして明示されてないことが多い(当たり前だな)。
参加する者は自分のスタイルにあわせて参加不参加を決めるがいい。但し、参加するならばその場のルールには従うことだな。ルールが明記されてないことも多いから観察することや試参加も必要だろう。もちろん自分のスタイルに合致した場が存在することなど誰も保証していない。誰も参加を強制しやしないし、不参加を強制しもしない。
私は、ネットは匿名性が高いこともプライバシー情報の流出にはリスクを伴うことも理解しているが、だからといって匿名性を最重視するつもりもないし義務化(あるいは宗教化)するつもりもない。なぜならば、匿名死守には人間関係上のリスク(信頼を得られない可能性など)を伴うからだ。ネット初心者じゃあるまいし、どのようなメリットやリスクがどの程度の期待値を持って存在しているのかを判断ぐらいできる。私の場合は、刹那的な交流はあくまで手段に過ぎない。「角をためて牛を殺す」では何の為の交流か?。
この私が、信頼できそうにない人と付き合いをいつまでも続けると思ったら大間違いだ。そうだな、ネット外で直接連絡可能であることがおおよその最低ラインだな。ある程度の交流がなされた後ならば、私は自分の住所や電話番号などを公開しても構わないと考えている。