新井さとしのポリシー

1990年代中期に書いたものを並べました。

私は合理的思考の持ち主です

理論体系(いわゆる哲学や価値観)というものについて私は、過去の現象をよりうまく説明し未来の現象をよりうまく予測することができる理論体系こそがより良い理論体系であると信じています。

科学や宗教はそれぞれ独立して成立し得る理論体系でありましょう。実際に、両者とも過去の現象を説明することができます。「科学では説明できないことがある」と言う台詞に対しては「科学ではまだ説明できていない」と答えることにしています。もちろん、不確定性原理などの限界があるので、まだ説明できていないという状態はずっと続くことでしょう。このことを考慮したとしてもなお未来予測という点で科学は宗教など他の理論体系よりも優れていると考えています。

そして科学という理論体系は、より良く現象を解釈できる理論があれば、躊躇なくそれを取り入れることを是としています。これは科学と宗教との最大の違いであるとと考えています。もしある宗教が完成された最も良い理論体系であるならば、科学は最終的にその宗教とそっくりなものに進化していくのです。

この2点の理由をもって、私は科学をより良い理論体系として採用しております。この哲学に基づいて、私は常に合理的な考え方をしております。

だからと言って不合理に見えるものを否定するわけでもないです

私は常に合理的な考え方をしております。

もちろん、これは宗教を信じないという意味ではありません。実際に、文化や風俗としての宗教を私は尊重しております。宗教家が科学技術の世話になることがあるように、科学者が宗教行為を使用することだってあるのです。私は、少なくとも社会生活に必要な程度の信仰を習得しています。また、価値観の相違を論じ互いに尊重することはより良い人間関係を構築するためにも有用だと考えていますので、自分の哲学を説明する為に必要なだけの宗教知識も持ち合わせています。

さらに言うならば便宜的な理論を使用しないわけでもありません。例えば、天動説と地動説とのどちらが良い理論であるかという問題に対し、後者の方が良いと答えます。しかし、良い理論が必ずしも実用的であるとは限りません。実際に、日常生活では「日が昇る」という考え方の方が実用的です。天文学者や国際的な仕事をする人達を除けば、理論の精度はそれほど要求されないものです。その精度を満たすならばより簡易な理論を用いるほうが実用的でありましょう。

一つの手段に固執しないことで哲学が無いと言うならば哲学が無いのかも知れません。しかし、目的に応じて最適な理論を使用するというメタ理論はこれまた一つの哲学だと考えています。この姿勢を公開することによって、私が裏表のある人間なのではなくTPOをわきまえた人間であることを証したいと考えています(それでも洒落になる範囲では遊ぶことは多いです)。もし私が洒落にならない行動を取っているのを見たら、他に何か上位の目的があるのだなと考えて下さい。

情けは人の為ならず

人付き合いにおいては「情けは人の為ならず」は私の信条とするところです。短期的な見返りの無い親切も努めております。戦略的勝利の為に戦術的敗北が必要ならば躊躇なく実行すべきです。

仲間や友人への親切は良好な人間関係を維持するのに有用です。良好な人間関係は私を快適にさせます。見知らぬ者への親切は新たな人間関係を築くのに最適でしょう。社会的弱者への慈悲は、私の強者としての精神を満たすのに有用であり、それを見聞きする者たちからの尊敬の念を得るのにも役立ちます。社会的強者への支援は、媚びない範囲において自分の能力を鍛えるのに有用です。

本音で語れる友人を得る為の処方

多くの人は本音で語る能力を持っている。ただ、それをためらうだけの理由も同時に持っている(多くは照れによるようだ)。多くの人は我々のように強くはない。いきなり本音で語ることができないだけなのだ。だから、そのきっかけを与えれば簡単に口を開く。それは酒であったりムードであったり信頼関係であったりする。

しかし、毎回毎回きっかけをつくるのは手間がかかる。酒の場でしか本音を語れない人とはあまり親しくなれないだろう。夜中の電話一本でもいきなり本音で語れる友人は大事にしたい(遠距離の電話代でもたかが知れているのだ)。

本音で語れる友人が少ないと嘆くのは、そのきっかけを自力で創り出すのが苦手なのであろう(そう、彼もまた我々のように強くはないのだ)。たまたま、いきなり本音で話すことができる人を見つけれればよいのだが、なかなかそうもいかないらしい。そんな場合は、とにかく信頼関係がある人に対しては本音を出すタイプの人を見つけて、その間に信頼関係を築くことだ。最初の1度の手間ですむ。

どうやってそんな人を見出すかって?。経験的には、少なくとも十人に1人はいるようだから、十人に声を掛けてみるがいい。外れ籤はもともと捨てるつもりだと、割り切ってやってみるがいい。なあに、籤代など安いものだ。

やりたいやつはやれ…もちろん私に迷惑をかけたら反撃するよ

意思伝達の為の言葉、社会の規範とその制裁に対する知識、そして結果を予想する知恵、生活に必要な技術。これらは、大人が子供に教えべき最も重要なことです。私はこの能力を持つ者を年若かろうと一人前と扱います。よって保護の義務はありません。権利を超えた自由を行使するのも君の勝手だが義務を超えた責任を君は負うことになるだろう、と冷酷な言葉と豊かな慈悲をもって彼の人格を尊重いたしましょう。

「〜すべきだ」という言い方をよくするが、その主語の行動を決定する権限を持っていない場合は単なる押し付けになってしまいます。だから、論議の場ならともかく実生活では、相手を一人前とみなしている限り「〜した方が良いと思う」という形で進言することにしています。もちろん、私が誰かを脅迫するときでさえ「〜しろ」とは言わないでしょう。…脅迫に従うか否かはその人が決めることだから。

強い者が勝つのではなく、勝った者が強いのだ

もう十数年も前の話です。千数百年も昔の建物を見た友人が言いました。「昔のものってしっかり作ってあるね」。私の答えは「丈夫に作られたやつだけが残っている」とみもふたもないものでした。彼女は「それもそうか」と笑ってくれました。

もちろん、丈夫なものでも既に消えていったものも多いでしょうし、逆に幸運だけで残存している場合もありましょう。それでも、現在までなお残っているものは総じて丈夫だという評価を受けているようです。逆に、残っていないものはそれがどんなに優れていたとしもほとんど評価されておりません(多くはその存在すら知られていまい)。

この考え方は私の価値観の原点となったものです。具体的には様々なレベルで例をあげることができるでしょう。利己的遺伝子の話題も生物の性欲の話題も「そういうシステムを持たなかった種は既に絶滅している」と考えています。強い者が勝つのではなく、勝った者が強いのです。

非科学的ということについて

非科学的という言葉はあまり意味を持っていないように思います。UFOだって超能力だって、まだ科学で説明できていないに過ぎないのです。未科学的とでも言えばいいのかな。

深く静かに潜航せよ

私は凝り性です。私が何かをやるときは、本当に必要最低限なベーシックなレベルで終わらせるか、その趣味を持つ者100人を適当に集めても誰にも負けないだけのマスターまで達するかのどちらかになることが多いです。

自信があるのは、3Dモデリング理論、解析力学、兵法学、ゲーム理論、行動科学、パソコン、AD&D、高橋留美子作品、サバイバルゲーム、民法、科学史、紳士服飾学。長いものでは1980年からずっとなものもあります。

何も犠牲にしないで自分の野望が達成できるとは思っていないさ

大学時代でしたか調布市に引っ越しました。和室6畳、台所4畳半、ベランダ2畳、収納2畳、二階角部屋、日当たり良好、風通し抜群です。それで家賃は3万5千円、もちろん風呂無し。いかにボロアパートかわかるでしょう(いちおう、東京ですよ)。風通し抜群とは夏暑く冬寒いの意味です。冷暖房も無し。広いだけが取り柄です。

車は持っていません。免許も持っていません。車の維持費を考えると毎回タクシーを乗りまくったほうが安上がりなのです(実際にそうしてます)。旅行の時でも「免許ないから運転しない。代わりに食事代は俺が出そう」はトータルで考えると実に安上がりな台詞です。

私の人生にはある目的があります。何も犠牲にしないで自分の野望が達成できるなんて甘い考えは持っていません。重要なことに金を集中投入する為に、普段の生活はできるだけ質素にすることが必要なのです。

できるだけ客を大切にしたい

ボロアパートに住んでいますが、6畳間の畳の上にはテーブル一つだけしか置かないようにしています。客間を兼ねた居間ではなく居間を兼ねた客間を旨としているのです。また、客にはできるだけ食事を提供することにしています。これらのきっかけとなった話でもしましょうか。

高校時代のあだなは「いんちょ〜」でした。自宅が高校から徒歩5分だったせいか来客はかなり多かったです。瞬間最大来客数は確か34人だったと思います。14畳の部屋があったのでそこを使わせて貰いました。親はその大規模な不意の来客に対しても「晴来軒の五目ヤキソバ(しかも大盛り!)」をいつものように当たり前の顔をして注文しました。友人たちの間では、現在なお私の親への評価は非常に良いものとなっております。ヤキソバ代の数万円は安い投資です。

そういえば、祖父の家は客が絶えない家でした。客には必ず飯を出せと私も幼き頃に教わっていたのです。全員からの見返りなぞ期待するほうが間違っている、一人でも恩義を覚えてくれたならそれで十分、と。確かに、全員からの見返りなぞ期待するとロクな目にあいません。見返りは不確実なものなのです。

自分も来客を大切にする家を作りたいと思います。学生時代は経済的事情によりせいぜい宿泊客への朝飯を必ず提供することぐらいしかできませんでしたが、今ではいくらか多くのものを提供できるようになったと思います。現在の住居における瞬間最大来客数は22人です。何人かは友人宅に、何人かは車中泊でした。全員を収容し切れなかったのは自分の経済力がまだ弱いからです。

追記。1997春に横浜へ引越しました。一軒家なので22人は十分可能。

個性

他人と違っていることが個性ではない。自分らしさが個性なのだ。他人と違っていることは結果にすぎない。

冠婚葬祭

友人諸君に告ぐ。君の葬式には必ず駆けつけるけど、結婚式は行かないかも。自分の死期が判明したならば必ず葬式の予定を連絡するように。

特に自殺する人には、みんなの都合にあわせて欲しいです。他人の自殺について基本的には制止しません。本気だと分かるからこそ、名誉のためにその意思を尊重したいのです。涙を飲みながら見守りましょう。

この文書執筆中に常に確認していること

この類の話は、酒の肴におあつらえむきである。自分の信条を語ることはその信条を再確認する上でも役に立つ。また、上昇志向の強い信条を語ることはとても楽しいものである。実際に、この文書の執筆もそれなりに楽しい。だが、ここで留意すべきことが3点ある。

まず、他人への嘲りや哀れみ、あるいは慈しみの形式で語ることにより、その他人を完全に自分より格下だと思い込んでしまう危険性である。他人を見下す楽しさは理解できないわけでもないが、ある特定の分野に限ったことであると認識すべきである。他の分野でその他人は自分よりもはるかに高いレベルにあるかも知れないのだ。

次に、井の中の蛙は大海を知らないと湖の蛙が嘲笑う危険性である。彼はその湖を海だと思い込んでいると始末に負えない。自分はまだ湖の蛙に過ぎない可能性があることを常に肝に命じておきたい。語ることは楽しいが、この程度の会話など過去に何千万人もが経験してきた筈だ。

そして、語ることで満足してしまう危険性である。熱く語ることであたかも自分が完全にそれを実現できるという錯覚を得ることは常に戒めるべきことであろう。私の場合はこの点に特に注意すべきようだ。私はまだ、事業を起こしたわけでもないし理想の老後を送っているわけでもない。

故意と過失の区別はしない

私は結果主義者ですので、基本的に過去の事例について故意であったか過失であったかの区別をできるだけしないことにしています。これは、何をどう考えどう行動するかの自由はその人の自由だと考えていること、及び、運も実力のうちだと本気で考えていることなどから得られる結論です。悪気が無く周囲に迷惑かける人よりも、悪気があっても周囲に迷惑をかけない人のほうがましだと考えています。同様の理由で、能動と受動との区別もできるだけしないようにしています。

好きと尊敬

かなり古い歌ですが「贈る言葉」を御存知でしょうか。その歌詞の中に「涙こらえて微笑むよりも、涙枯れるまで泣く方がいい」というのがあります(違ったかな?)。

私は強さというものを追い求めており、歌詞とは逆にどんなに泣きたいときでも微笑むことにしています。だからこそ、本当に泣きたくなるような辛さも分かります。それが分かるだけになおさら私は、自分と同じ強さを持っている人が涙を流したときに、その人の涙が止むまで自分のできるだけのことをしてあげたいと考えています。

我々は、結果主義の社会の中に生きています。そこでは努力しても報われないことの何と多いことでしょう。私の職業も結果が全てです。努力が結果につながらなかった場合も少なくありません。自分がそういう状態のときは涙をこらえて微笑むことにしています。

誰かが涙をこらえて微笑んでいるときは自分がそうされたいようにほっておきます。だけど涙を一粒でも流したならば全力で駆けつけます。別に同情とかそういうのではありません。私は男女を問わず強い人を評価します。同時にその強さゆえの涙を拭ってあげたいのです。実を言うと、私は頑張っている人が大好きなのです。

彼の考え方は理解できないが約束は守る男らしい

自分自身で思うに私の価値観は一般的なものではないようだ。だからこそ、他の人々とつきあう上で、新井というもののインターフェィス(他人との付き合いかた)を公開する必要がある。喩えれば、車の構造は理解してもらう必要はないが運転できるようになってもらいたいのだ。

人が何をどう考えどう行動するかはその人の自由だと考えている。ただ、その行動が社会規範に反する場合には制裁を受けるかも知れないだけである。このように考えた結果、私のインターフェイスは「自分で約束したことは自分の名誉にかけて履行する」というものとなった。とにかく、新井の考え方は理解できないが約束は守る男だというように理解してもらえばいいだろう。結果的に古い武人に似ている価値観になっているようだ。

あまり自慢するべきことでもないのだが、この8年間で友人と約束した刻限に遅れたのは3回である。地震や大雪で電車が動かなかったからだが、運も実力のうちと考えている私としては、その遅刻は私の弱さゆえということになる。もっと幸運を!。

もっとも、相手方の方が遅かったので、ばれてないのだが…。

どうやっても便利君にはならないだろう

無理してまで嫌われないようにするのは私の趣味じゃないです。その意味でいうと身分感覚や金銭感覚が麻痺している人とは付き合いづらいです。相手が女の子であろうと同様です。おねだりばかりするタカビー女とは付き合いたくないですね。できれば、貧乏な人の方がつきあいやすいです。

友人と仲間

在学中は仲が良かったのに、卒業してから一度も交流の無い級友に心当たりがないか。友人たちに問うと、みなそのとおりであるとのこと。なぜ縁が途切れるのだろう。交流が続く関係を観察するに、学校という場に依存していない共通項を持っていることが必要条件になっているようだ。例えば、同じ進学先、同じ趣味、あるいは近所であったり親戚であったりすることが必要条件になっているようだ。

たった一つの共通項は、双方または片方がそれに関わりなくなればそれでおしまい。学校という共通項も相手が転校しちゃえば自分が在学してたって疎遠になる。手紙のやりとりも話題が続かなくなればそれでおしまい。私はそんな関係を仲間関係と呼んでいる。一期一会の心構えをもって付き合うのが効率的だろう。

複数の共通項を持つ関係を友人関係と呼んでいる。ようするに、同時に消滅しない共通項を持っていればいいのだ。人間関係を長続きさせるコツでもあろう。経験的には、普段の会話に使う話題のほかに、互いに信頼できるという関係を入れておくのが良いようだ。そんな友人関係を私は親友関係と呼んでいる。

私は多くの親友を求めています。その為に、私は様々な人と本音で話そうとしてきました。もともとアクが強いので敬遠する人も少なくありません。しかし、表面を取り繕ったつきあいなぞビジネスだけで十分。ポリシーも服装も会話もみんな造り物な関係なんて面白くありません。私は、これからも常に自分のポリシーに従っていきたいと考えています。

やすらぎの研究

私の個人研究テーマの中で特にユニークなものに、やすらぎに関する研究があります。もともとは感情制御&感情支配の研究で、例えば快感を得る手法や戦慄をもよおさせる演出などの人工的な感覚について考察したものです。実際には、超現実主義科学者であるこの私がいかにして人工的なやすらぎの感情を得ることができるのか、についての研究がメインとなりましたが…。

結論の一つに、感情は認識に起因しその認識は現実の体験からだけではなく仮想の体験からも得ることができる、というものがあります(これが仮想と現実との研究へと発展していくわけです)。実際の例としては、映画や小説やゲームなどの際に得られる感情が挙げられます。この結論は当たり前のことだと言う人もいますが、これを説明するのはなかなか大変なんですよ。

人工的やすらぎを得る方法はいくつもありますが、理論的にも経験的にも有用な手法を紹介しましょう。台詞だけだと「全てのものに感謝の気持ちを忘れない」、「(就寝時)今日、もっとも感動したことは何だろう?」、「(仕事場で)パソコンさん、今日もおつかれさま」「(駅で)交通システムを築いた人間というものは凄いなあ」「こんな自分が好き」などなど、歯が浮きそうなものばかりですね。

仮想体験で得た感情を現実で利用すること。これは私のメンタルヘルスにとって実に有用な手法です。

一流&三流

先日、メガネを新調する為にメガネ屋に行きました。自分の要求する機能をそなえているもののなかでより自分の顔にマッチするものを選んでいくと、かなり高額なブランド品が残りました。

このときは良いものを買おうと決めていたのでブランドや値段をまったく見ていなかったのです。ブランド品を買わない主義というわけじゃありません。自分の要求する機能が備わっていればブランド品であろうがなかろうが構わないのです。結局、そのメガネにしました。

私だってそれほど大金持ちなわけじゃないです。ただ、ときおりものすごく高価な物を使っていることがあります。決して見栄を張っているのではなく、良い物を買ったらたまたま高かったに過ぎません。

私の買い物には面白い傾向が見られます。それは、長く使える一流品と使い捨てできる三流品との両極化が激しいのです。二流品は押し入れに眠る運命にあり、家賃に閉める占有面積を考慮してさっさと誰かにあげるなり処分するなりしております。

もっとも両極化が激しいのは服です。学生時代は安いものを使ってました(靴と鞄を除く)が、社会人になってからは、その反動、プラス、ハイソな人たちとのつきあいの関係で必要ということもあり、上から下までトータルに良いものを用意してます。

死者への恋文

今朝の夢の中。君から葉書を貰いました。幸せに暮らしているようですね。追伸に「時がたっても精算禁止」とありました。慟哭を覚え、目が覚めました。相変わらず勝手な人です。けれど、最高の恋文でしたよ。月日の経つのは早いものです。また君の命日がやってきます。

君からもらった手製のてるてる坊主、私の宝物です。まれに何か悩むことがあると眺めています。弱い男だと思いますか?。君の性格ならばこう言うでしょう、「私のことは早く忘れて、自分の目的に向かって下さい」と。安心してください。君が惚れた男は弱い男ではありません。自分の目的を達成する為に、私は君のことを自分の精神的外傷としているのです。

最近、仮想恋愛が流行っているようです。アニメやゲーム、あるいは風俗にもそれらの兆候が見られます。既に亡き者への恋愛も同様なのかな?。君への想いが仮想なものではないことを証明する為に、私は「現実のパラメータ」を上げ続けます。もし自分がその努力を忘れたとき、私の想いは完全に仮想のものとなるでしょう。リセットの無い恋愛、その辛さに負けるつもりはありません。

周囲からは恋愛に興味を持たない変人扱いされることもありますが、感情に押し流されず理性をもってより合理的な人生を歩んでいます。もうしばらく、私が自分の目的を達成するまで、私の心の中にいて下さい。

敗者の務め

誰が猫に鈴をつけるのか?。総論「誰かがやらなきゃならない」賛成、各論「じゃあ誰がいく?」反対。この類の問題では私は総論主義者ですから、全体にとって期待値が最も高い選択肢を採用すべきだと考えます。

もし最適任者が私ならば躊躇なく実行しよう。もちろん、私が最適任者でなければその限りにありません。私だって馬鹿じゃない。あらかじめ情報を集めて問題の発生を予想し、私が犠牲になることによる全体にとってのデメリットを大きくしておきます。そうしておけば、私が最適任者になりませんからね。もちろん、その努力むなしく自分が最適任者となったならば名誉にかけて躊躇なく実行しましょう。

もしその最適任者が他人であり、その者が各論反対しているならば、その者に実行の義務を課すように決定権者を誘導しましょう。そして決定後に言うのだ。「君にはその義務がある」と。

予想も準備もしなかった最適任者は私を卑怯だと罵るであろう。だが、彼にだって準備する機会はあったのだ。問題を予想しなかったこと、できたとしても準備しきれなかったこと、要するに彼には実力(才能、努力、運)が不足していたのです。本当に気の毒です。

社会正義…郷に入らば郷に従え

私は、社会を特定の所属意識を持つ人達の集団と定義しています。この定義は、固有名称を持っているか否か、組織的であるか否か、構成員が物理的に集合しているか否か、構成員が社会への所属意識を認識しているか否か、および、構成員が単数か複数かに関わらないとします。この定義のもとでは、国家、地域、会社、学校、親族、教団、群衆、階級、及びサークル、並びにそれらの内部集団などなどが社会としてあげられましょう。

正義を価値観又は行動基準と定義しています。ですから、社会正義とはその社会の構成員の正義の綜和を言うわけです。それは社会規範(法令や道徳)に相当します。日本社会に独特ないわゆる空気というものも社会正義の一種でしょう。

さらに、社会によって認められた自由を権利と表記し、社会によって負わされた責任を義務と表記します。日本国という社会に於いては、自由のうち公共の福祉に反しないものが権利とされているようです。

社会正義の定義より、ある社会の社会正義は必ずしも他の社会に通用するとは限りません。例えば、社会Aに於いて権利として認められている自由は、必ずしも社会Bに於いて権利として認められているわけではないのです。権利として認められていない自由は多くの場合、基本的に反社会的行動とされます。それは社会からの制裁の対象となるでしょう。

恋愛相談

「一週間まじめに働いて金をため、風俗店に行って来たらいいんじゃない」と、いきなりインモラルな発言で恐縮ですが、異性に過剰な期待を抱いている君によく言う台詞です。君も相手もまた同じ生物に過ぎないのだよ、ってね。

どうしたら落とせるか、なんて悩むこともあるまい。落とすだけなら難しくないのだ。相手の反応を手の平の上で弄ぶくらいの洞察力と演出力を持てばいい(ついでに美貌や経済力も、打算の計算速度も!)。もちろん、力関係によっては弄ばれる側になることでしょうし、君が幸せになれるかどうかも別問題だがな。

金を持ったことがない者は金を求めることが多い。そして金を持ったときに気が付くのだ。金は幸せを得る為の道具に過ぎないと。ゲームの攻略方法、推理小説の結末に対してもこの考え方を応用できるだろう。もしかしたら異性も幸せを得るための道具かも知れないよ。

君が異性を求めるのは何の為か。セックスしたいだけ?、社会的立場の為?、その人に尽くしたいから?、その人を恋人にすると君が幸せになれると信じているから?、子供を造りたいのか?、それとも君の何か他の目的の手段の為?。

…落とした後のことも考えるといい。陳腐な表現だが、付き合い始めは言葉通りにスタートに過ぎないのだ。君も相手もまだ若いから、もっとたくさんの素敵な人と会うだろう。それでも互いに愛し続けることが出来るか。結婚する予定はどうだろう。どうやって別れるか。…その人を失ってもその人のことを好きでいられるか?。

まあよい、たくさんの子供を作ってくれ、…私の年金の為に。

引き分けと負けが同じなら

翌日までに100万円が必要になった。借りる当てはない。手元には10万がある。この場合には、確実に100%で10万円を得る選択肢よりも、5%で100万円のギャンブルをしたほうがいい。ついつい目の前の100%につられる人は気の毒だ。

最も期待値が高い行動をすべきであるという主張とは矛盾しない。この場合の期待値は「前者が収益10万、後者が収益5万」ではなく「前者が成功率0%、後者が成功率5%」なのです。

本棚の観察

他人の家を訪ねると必ず本棚を見せて貰うことにしている。本棚にはその人の価値観がよくあらわされるものだ。同時に自分の本棚も他人にみせて恥ずかしくないものでありたいと思う。

剣はペンよりも強し

私は目的を達成する為に有効ならばどちらでも使いますよ。剣の方が有利なら当然として剣を手に取ります。個人のレベルでは概して「剣はペンよりも強し」だと考えています。ペンを使う戦いかたは結局は誰か他人に剣を持たせる戦いかたです。もし全ての兵士が剣を捨ててペンを持ったならば、その軍隊はいつかほろびることでしょう。

ツキとか気合とか最初に言い出したのは誰なのかしら♪

神仏を尊べど、神仏を頼まず。運は自力で切り開くものだ。

自叙伝

私は簡単な日誌を付けています。備考欄は日記として使用しています。この日記は私の老後に出版されるであろう自叙伝で使う目的も持っています。「新井は若い頃からこういう文章を書いていた」というように使用するのです。

借金

基本的に借金やローンというものはやったことがない。どんなに高いものでも現金決済。家だってローン無しで買うつもりです。金利を計算すればそれがどれだけばかばかしいか分かるでしょう。若いうちは苦労するけど、年をとったときに苦労が少なくて済みます。日本だって今までのような経済成長は見込めないのだから、将来に対して備える意味もあります。

基本的に借金さえなければどんなに落ちぶれてもいくらでもリセットが効くわけですから、小さいものでも借金はいやなのです(もちろん、日常で奢ったり奢られたりはやってます)。

ただ、会社を興すときばかりは借りることになるでしょうね。

歴史

知られている範囲の過去を矛盾なく説明できればいいのだから、歴史というものは何通りだって創作することができましょう。真実は確かに唯一の存在でありますが、事実とされることはいくらでも存在し得るのです。

だから私は歴史的事実というものは必ずしも真実であるとは限らないと常に考えています。しかし筋が通っている以上、そこには何らかの合理性が含まれています。だから、歴史とは教養を得るものではなく知恵を得るものだと私は考えています。

謙遜は美徳か?

謙遜を美徳という考え方は採用していません。論理を重んじる者は物事をあるがままに評価しなければならないからです。謙遜は過大な自己評価と同様に、真実から離れた情報を生むものだと思います。社交辞令としてどうしても必要な場合でも、内心では常に自己をあるがままに評価しています。

好きな天気は?

晴れの日が好きという人は多いが、嵐が好きという人は少ないようだ。台風が来るとはしゃぐ子供も少なくないが、私の場合は基本的にそれとは異なる。思うに、悪天候は自然の偉大さを人に知らしめ、それを克服する努力目標を人に与える。温暖な地方の文化は概してのんびりであり、私のスタイルに合致しない。

あくてぃぶそな〜

相手の思考を推測する必要があるとき。寝た振りをして客の会話を聞く。知らない振りをして質問し、その知識の度合いを探れ。おだててみよ、怒らせてみよ、困らせてみよ。その反応で内心のほどが分かる。

私の場合、これをやっていることをときどき公開する主義。よって使い所が難しい。しかし、その分、効果的に使おう。

事実と意見

しばしば混同されることだが、事実と意見は同一ではありません。意見を事実と認識してしまうのは実にばかげたことでありましょう。特に公正な報道を旨とするマスコミにはこの点に留意してほしいですね。

18歳未満10円の話

若い人と食事するとには基本的に私が負担している。18歳未満には10円だけを負担してもらうというのが多い。彼らが払いたいと申し出たらいつもこう言っている。「私も若い頃は貧乏だった。君たちが金に余裕がでてきたら君たちの次の世代におごってやってくれ」。我ながら格好つけすぎかな。

もちろん、十分な収入がある人には奢ることはかえって失礼になるので当然として負担して頂いている。難しいのは女の子との食事である。むやみに奢るほど卑屈ではないし、まったく奢らない甲斐性無しでもない。基本は自分の分は自分で払うこと、ただし千円未満の端数は私が出す。このくらいが適切のようだ。もちろん、自分がホスト側である場合は必要最低限で形ばかりの額をお願いすることにしている。

公序と良俗との優先順位

人の性格の分類方法としてこんなのはどうだろう。それには二つの要素があって、秩序を守るか否か、他人と自分のどちらを優先するか?。私は前者を秩序(ローフル)と混沌(カオス)に、後者を前(グッド)と悪(イビル)とに分類しています。例えば、秩序を守らない善人としてねずみ小僧のような義賊があげられましょう。

もちろん、私はローフルイビルですよ。友人たちは新井を評して「極悪だが非道ではない」とするようです。別の友人は「約束と論理の人」と評してくれてます。

障害者とのつきあい

親戚に知的障害者がいる。会話能力が人より劣るが記憶能力は並みの人間ではかなわないほどである。彼は両親と同居ながらもなんとか生活できている。自分より優れた能力に対しては高く評価することにしているので実は彼を評価している。

経験的に、どんな人でも何らか他人より優れた能力を持っているようだ。しかしながら、それが何であるかなかなか見えない(多くの人は見ようともしない)。私はできるだけ、その人の良い部分も悪い部分も認識したいと考えている。そして、その長所と付き合いたいと考えている。たとえ四肢が不自由な人だって思考能力は高いかも知れない。その能力を生かして自力で生活できるならば、私はその人を評価する。

コンピューターや情報機器の発達は肉体的なハンディキャップを埋めることを可能とする。私は自分の会社を作ったときに彼らに雇用の機会を提供したいと考えている。これにはコストもかかるが社会的評価などのメリットもある。もちろん、成果に見合った報酬を用意しよう。私は結果主義者でもあるので、成果を出せない健常者よりも成果を出した障害者を評価するだろう。

余談であるが、私の考え方を思い上がっているという人もいる。しかし、世の中には需要を欲する者も供給を欲する者もいるのだ。どう行動したかについて文句を言われることはあるかも知れないが、どう考えているかについて文句を言われる筋合いはない。

レベルアップの功罪

人間の格(これをレベルと呼ぶ人もいる)が高くなれば、より多くの友とより多くの敵とを生みだすことになる。敵を作ることは確かに気が重いものである。しかし、私はより多くの友を得たいと考えている。私の戦略では友の価値は非常に高いのだ。例えば、1人の友と1人の敵とがいる生活よりも2人の友と10人の敵がいるほうがましだと考えている。したがって、今後も自分の格を上げることをためらわずに生きていきたい。

復刻・自己紹介文書

新井は大悪人です。普段の新井はあたかも善人であるかのように行動しています。この二つの文章を「しかし」ではなく「だから」で接続するところに、新井の価値観が表れています。趣味は、法律、兵法学、及び高橋留美子作品です。お見知りおきを。

復刻・自己紹介文書2

私の最も好きな格言は「情けは人の為ならず」である。私はこの格言を「自分が幸せになるという目的の為に、他人に親切にしたり約束を守ったりという手段を使用する」と解釈している。よって、他人に親切にしなかったり約束を破ったりした方が大局的に得策であるならば、平気でそうするのだ。ただ、そのような状況はせいぜい年に一度あるかないかなので、そこそこに付き合っている人達からは一般に「新井は善人である」と見られている。

また、法令、常識、道徳、及び約束を守るということは自分の信用を高める上で必要であると考えているので、実際にはそれらの範囲の中でしか行動していない。もちろん、抜け穴がある場合にはその状況による。従って、私のことをよく知る友人達は「新井は極悪だが非道では無い」と言う。そして、私自身もそのことを公言してはばからない。

真の目的は?

私の性格を端的に表すエピソードがある。

それは、私が大学2年のときのことだ。当時、私は学友会執行委員会(学生自治会の本部と解釈して下さい)に属していた。ここに入ったのも「ここならずっと付き合える価値のある奴がいるだろう」と考えたからである。

当時の学友会は分権が過ぎて意志決定システムが正常に機能していなく事実上の「委員達の私物」と化していたので、居心地は悪くなかったものの、「下らない」という印象を禁じ得なかった。そこで私は、前委員長らの政策に真っ向から反対する政策を掲げ、同期の仲間達と共に学友会の大改革を行うべく行動を開始した。具体的には、学友会会長への中央集権的な会則体系草案を起こし、会則の全面改正をもくろんだ。改革は、学友会の全機関を巻き込んでの闘争となったが(そのように仕向けたからなぁ)、最後には学生大会に於いて「強行採決」を使用し改革を成功させることができた。

その時の仲間達とは強い信頼関係で結ばれ、卒業後もずっと付き合うことになる。

私の大学生活は、卒業したら縁のなくなるような「仲間」ではなく、同窓という共通項がなくなっても付き合えるような「友人」を作ることを最大の目的としていた。改革の真の目的がこちらにあったことは言うまでも無い。

ラプラスの悪魔

一冊の本がその人の人生を変えることがある。しばしば使われる言葉であるが私の場合も他聞に漏れない。私が科学者になろうと考えたのは「科学パズル」という本であった。そのパズルの52問目の解説である。私はそこで学びました。どんなに不可思議に見えることでも必ず原因があると。

ラプラスの悪魔をご存知ないだろうか。彼は世の中にある全てを知るものである。サイコロを振る手の状態も、空気抵抗の状態も、地面の形状も弾性も全て知っている。脳の内部の蛋白質の構造や神経回路の状態、あるいはそれらを構成する原子のでさえ、彼は知っているのだ。シュレーディンガーの猫の生死も彼は知っている。

科学者の究極的な姿はまさにラプラスの悪魔であろう。しかし、悲しいかな人間の観察力には限界がある。原理的に知ることができないものもあるのだ(例えば不確定性原理)。それでも、できるだけ私は彼に近づきたい。シュレーディンガー猫の生死を知ることはできなくとも生存確率を知ることは可能である。こうして私は科学を志したのだ。

法をまもること

法を守ることは重要だが、法を護る必要はない。その社会に最適な法体系は常に変化していくものです。悪法もまた法なり、時代にあわせて変えていくべきでしょう。

犯罪

割に合う犯罪ならやりますよ。とりあえず数億円以上かな。窃盗や強盗よりも詐欺のほうがいいです。同じ収入が得られるなら、より刑の軽いものの方がいいですから。

どちらが本物でしょう?

2枚のそっくりな絵画を見せて「どちらが贋作でしょう?」と問うてみる。その2枚は確かにそっくりだが僅かな差異が認められる。問われた者はどちらが本物でどちらが贋作かを真剣に考えることだろう。

まったく、両方が贋作である場合もあるというのに…。

冷たい方程式

政策1には+10のメリット、政策2には+2のメリットがあるとしよう。そして他には選択の余地は無い。愚かにも政策2を選択したとしても民衆はそれで良しとする。もし、政策1には−10のデメリット、政策2には−2のデメリットがあるとする。そして同様に他には選択の余地はない!。賢くも政策2を選択したとしても、民衆はそれを否とする。少なくとも現代日本の文化では単純にプラスかマイナスかだけが重視されているようだ。

為政者の務めについて、最大のデメリットが許容範囲内にある選択肢の中で最もトータルがプラスになるものを選択することと私は考えている。そして同時に、トータルがマイナスになるものを選択した場合は(非常に気の毒ではあるが)それに応じた責任を負うべきだと考える。

どうやってもマイナスにしかならない状況はその逆の場合と同様に確かに発生し得るのだ。ときどき考えることだが、昭和20年に英米に宣戦しなければ何百万人の日本人が飢え死んでいただろうか。他に選択の余地がなかった。期待値だけでいうならば宣戦した方が確かに被害が少なかったのではないだろうか。最も賢い選択を行ったと思われる当時の為政者らに対して私は同情的である。だが、適正な責任を取らすことも必要だと考えている(そして、そんな状況まで日本を追い込んだアメリカ帝国主義をより嫌っていたりする)。

最近の例では薬害エイズ。もし、薬害可能性を予見すると同時に薬剤を全回収していたら薬剤不足でより多くの人が亡くなることも予見できていたならば、どうか?。回収しなければ多くの人を死亡させた責任を負うべきだし、回収しなければより多くの人を死亡させた責任を負うべきだろう。そして、そんな選択肢しか残さない医療技術の遅れとその原因たる先見性の不足は大いに責任を問われるべきことだ。

虎は死して皮を残し、人は死して名を残す

ヒトは動物の一種であり、自然の一部でもある。基本的に動物が死んだらその死体が残るだけである。しかし、それ以外の何かも残す事が出来る。これがヒトが他の動物と異なる知性体であることの証であろう。

「自然」に対する言葉として「人工」がある。ここでの「自然」とは狭義の意味に違いあるまい。「人工」とは、動物が道具を使ったことの延長に過ぎないと考えているからだ。

「人工」は最も広義な「自然」の一部にすぎない。レミングの大量自殺もヒトの核戦争も広義の「自然」から見ればそれほど違いは無いだろうと考えている。

ゆえに、死体を残すのもそれ以外のものを残すのも、それほど大差ないということだ。ならば、何を残すかはその意思次第だ。私の場合は名を残そうと考えている。功名あせる人を批判して隠遁する人もいるが、大差ないだろうと考えている。

脅迫における選択は受動的なものか?

従うも従わないも我が自由。脅迫内容が不当なものならば我に従う義務無し。治安が良いとされきた日本も既に例外ではなくなっている。諸外国と同様に安全に対するコストを個人が支払う時代となるだろう。自分の身は自分で護らなくてはならない。その為に、日頃から備えを怠ってはならない。

後悔先にたたず、後悔役にたたず、後悔後をたたず

反省はしても後悔はしまい。

間違えたならば、善後策を考えればよい。

最良に優るもの無し

子供の頃、おもちゃにしていた祖父のライター。ダンヒルのものだったらしい(よく分解してたものだ)。「最良に勝るもの無し」は英国の喫煙具商アルフレッド・ダンヒルの言葉である。これは「最良(とよばれるもの)に(は)勝るもの(が)無し」と読むのではなく、「最良に(対して)勝る(別の)もの(は)無し」と読むのである。このポリシーは気に入っている。

理想化と合理化

「自分は頑張っているんだ」とか「自分はこの仕事が好きだから」と自分を納得させている人が多いようだ。本当に好きなの?。自分を納得させる為にそう思い込もうとしているのかな?。まあ、本人がそれで幸せならどうと言うこともない。

サイコロ&カード

さて、その人は誰でしょう。ただの偽悪家の小心者?、面白ければ何でもやりかねない暇人?、それとも約束と秩序を守る論理の人?、それともマッドサイエンティスト、それとも役者きどりの変わり者?、最後のカードはふせられたまま。それが本当に最後のカードかどうかもわからない。いや最後のカードなんて概念があるのかどうかも分からない。カードが何枚あるのかもわからない。

それはラプラスの悪魔だけが知っている。しかし人はそれを知ることはできない。あくまでおおよその確率でしかわからない。しかし、分からないからといって逃げるわけにも行くまい。どこかで、チャレンジしなければならない。確率推定に全力を注げ。ダイスを投げることを躊躇してはならない。

さあ、さいころを振る番だ。

情時の後を思えば

あまり性欲はない。

新井さんの性格について覚え書き

誰が何をどう考えようとそれはその人の自由だ、というのが私の主義です。人ってのはそれぞれ違う価値観を持っています。共通項を見いだす為に相違点を探ることは有意義だけど、ことさらに相違点をあげつらうのは論議を楽しむ為の場でない限り意義はあるまい。

ところで、一部の人は私のことを自分に都合のいい誤解はわざと解かないでいるくせに都合の悪い誤解は早急に除去する人であると言っているようですが、それは真実と異なるものです。私は良い誤解であろうとも悪い誤解であろうとも、私にとって誤解を解くべき理由の無い限りほっておきます。もちろん誰かから聞かれた場合は常に事実を述べることにしています。

まぁ、面倒くさがり屋なので(笑)

悪い新井さん

大学時代の後輩からは「悪い新井さん」と称されている。

人間関係上の演出とかも勉強しました。例えば、私が相手の誕生日をちゃんとスケジューラで管理して、その日に電話して話を誘導しながら「こらこら、もうn歳になったんだからちゃんとしなきゃ。今日だろ」と思い出したように話すのも、この頃からやってます。

で、このやり方を黙ってれば「善い新井さん」と称されるわけですが、私はこのやり方を隠しません。やり方を理解して頂いた上で、それでも感動してもらえるように頑張っています。

「偽悪家ぶっているが本当は善人」だという誤解はしばしば発生します。究極の悪人は聖人君子と区別できないと、いつも言ってるんですが、なかなか理解して貰えないです。いつも、やり方を解説するので友人たちには「でも、くどい」と評価されているようです。

甘い計画

甘い計画はハイリスクハイリターンである。すなわち十分な実力でそれを成功させればその評価は非常に高いものとなり、失敗すれば酷評を免れない。もちろん酷評を覚悟で臨む作戦も成立するが、その場合は十分な期待値を計算してのことであろう。酷評を覚悟せずに臨んだ場合は、その期待値も計算できないゆえに無謀なギャンブルにすぎない。それは例えば10万円を当てるために14万円を費やすようなものだ。

優劣

何でも平等という考え方には同意しない。人に優劣があるのは当然なのだ。もちろん人の優劣を一面だけで判断する考え方(例えば学歴主義)にも同意しない。人に様々な能力があるのは当然なのだ。ある人と別のある人とでは得意分野も異なるであろう。人の優劣を論じるときは何を重視しての優劣かを明確にしたほうがよい。

ブルドーザーな人

自信家で強引で自分の方針を曲げない人。周囲の提案には理解は示すけど、めったに同意してくれない。そして腹立たしいことに彼のやり方が結果的に最も正しかったりする。稀に彼が間違えてたりするともう大変。修正させるのに一苦労。私もそんなタイプの一人。

マーフィーの法則

「パンを落とすときは、バター側が下」。そりゃそうでしょう、例えば、実際に五分五分であったとしても、バター面が上のときは50%で気にして、下のときは100%で気にする。

そうすると気にしたときの67%がバター面が下ということになる。

多くの人が…

多くの人は「人生とは何だろう」とまじめに考えたことがある。それほどまで「まじめに」考えている人がいるにも関わらず、問題は一向に解決しない。何が原因だろう。

平等

「先生は頭のいい子には注意しないで、俺達ばかり注意する」と言う少年よ。まず確認したいことは「頭がいいから注意されないのではなく注意されるような行動が少ないから注意されていない」である。もしそうであるというのであれば、その先生は「結果の平等」ではなく「機会の平等」ということを旨としているのであろう。頭が悪くても注意されるべき行動をとっていなければ注意されることもあるまい。

剣はペンよりも強し2

しかし一般にはその逆とされている。なぜならば、剣がいくら勝っても後世には伝わらず、ペンがたまたま勝った場合は後世に伝えられるからだ。冷静に世の中を見よ。剣のなんと強いことか。

貯蓄

金は貯めなければならないものではないのと同様に、使わなければならないものでもない。今日から新年度、無駄使いは控えよう。

日経平均16300程度。1$=133円程度。金1330程度(1998/04/01)。

優先順序

葬式、火事、入院、などの他人の不幸があれば最優先で駆けつける。続いて、法事関連と法務関連。次に最愛の趣味ルーミック。その他については、先約優先とする。もちろんビジネスは、「愉しむために生き、生きるために食い、食うために働く」の観点から最後のカテゴリー。

雑魚

平等とは社会が決めたルールに過ぎない。人には個性や能力があり、それは他の誰とも異なるものである。したがって、大魚もいるし雑魚もいる。雑魚には雑魚の言い分があるし、大魚には大魚の言い分がある。多くの場合、雑魚は大魚の言い分を理解すらできず、大魚は必要悪の名の下に雑魚を補食する。自然のシステムは雑魚が食われることを前提にしているに…。

支配されたがっている人もいる。無理に被支配者を開放するべきではない。

付き合い

人との付き合い方はその人の価値観に応じるものであるが、私のように自分を尊重する人は、同様に相手を尊重するのが有効だろう。

趣味と生活

趣味の為に生活を犠牲にすべきでなく生活の為に趣味を活用すべきなり。たとえ周囲から「人生を踏み外した」とからかわれようとも、この決断に自信を持って私は趣味を活用しております。

こうして冥府魔道に入り時は流れる。 もっとも、住めば都とも言うが。

男は… 19990112

媚びることを優しさの表現だと勘違いしている男の何と多いことか。そのような同性諸兄を軟弱だとは思うものの、批判する気は全くない。

女性が強くなった現代に、男の優しさが必要とされる機会は少ない。強さや優しさを見せる機会を作り出すのは当然の行動なのかも知れぬ。

よき趣味人たりたい

皆様御存知の通り、私の第一の趣味は高橋留美子作品です。特に『うる星やつら』を専門としております。この趣味一筋ずいぶん長く続けて参りました。石の上にも三年と申しますように、それなりの達人の域に達することができたようです。しかし、まだまだ道は長く今後もより一層の精進が必要であると考えております。

他の趣味として、AD&D、骨董、英国様式、温泉、旅行、法律、ゲーム、探偵文学、兵法学などがあります。結果的なものですが、サイコロのコレクターとして千個以上を保有しております。

趣味というものは、それ自体のみを楽しむべきものではなく、それを通じた人間関係をも楽しむべきものと心得ております。その為にも同好の士とは、趣味だけでなく様々な共通項を創り出していくべきです。

人間として互いに尊敬できることは、趣味そのもの以外の共通項の中で最も頑丈な共通項です。私の経験則&持論では、この相互信頼は互いに自己のアイデンテティを示すような共有体験によって発生し得ます。馴れ合いな体験や与えられた体験では得られない。仮面をかぶった関係でも得られないし、誰とでもうまくいくわけでもない。リスクを超えて得た信頼関係を持つ友人たちを私は親友と呼んでいます。

どんな趣味であれ、常によき趣味人たりたいものです。

Satoshi ARAI ( arai@luminet.jp )